ビスタワークス研究所の志事(30) 文・大原 光秦
想ふこと、鑑みること、徒然なるままに~令和5年を省みて~
令和5年を振り返る
さて、令和5年は皆さんにとってどのような1年だったでしょうか。私はと言うと、示道塾第11版を京都、香川、福岡を皮切りに富山、福島、長野で展開。多くの新しい同志との出逢いに満ちた1年でした。3月には「凡事一流・実践篇」を書き上げ、トヨタビスタ高知からネッツトヨタ南国、そしてビスタワークス研究所に至る活動とその背景にあった個人的な思惑を詳しくご紹介しました。
一方、ビスタワークス研究所としては、コロナ騒動がひと段落して各所からベンチマーキング(現地視察學習会)にお越しになる方々で賑わいました。師・横田英毅もこのしばらくは県外に出ることを控えていましたが、ホームの地で多くの方々にお会いし、対話できるとても有意義な時間となったようです。ありがとうございます。乗組員の面々はネッツトヨタ南国と連動して大夏祭りやファミリーカーオリエンテーリングを開催したり、「令和の武者修行」を高知県経営品質協議会に移管して地元企業と共催したり、また県内外の企業や教育機関に例年にも増して数多く出講するなど、活動領域が広がる1年となりました。
2024年をいかなる年にするのか
再来年、「2025危機」について各方面で語られるようになって来ました。示道塾でご一緒いただいた方々は記憶があると思いますが、私も2025年が大きな節目となるとずっとお話しして来ています。その年は十干十二支でいうと乙巳、私の生まれ年でもあります。いくつかの断片情報と時勢を読み込んでの推察と直感に基づくもので客観的な根拠は乏しいのですが、2011年に仙台で被災した頃から予感し始め、各地の士と出逢い、また難局を乗り切る同志を求める場として示道塾を立ち上げた経緯があります。2020年に「日本示道塾互助共道隊」とセンスメイクして土佐、會津、信州(松本)、高志乃國(富山)で大和経営塾を立ち上げ、士チェーンを構築すべく活動しているところです。
こう書くと、訝しがられる方もいらっしゃると思いますが、ことが起きてから慌てても仕方がありません。できることは【すべて】やっておく、そういう時代です。では何をすればいいのか?その手掛かりを得ようとネット空間に没入しても、漠然とした不安が募るだけです。
生きるための資源を分かち合い、
援け合うコミュニティを構築する
備えるべきことは、この一択でよいと考えます。それは本来の日本人の暮らし方であり、難しいことでもなんでもない。ただ、たいしたメリットがないからと誰もやらなくなり、コミュニティが崩壊しているのです。しかし、ここからはそれが何より大切となります。幸いにして何も起こらなくとも有益な財産になることは間違いないですね。
今回のコロナ騒動を教訓にした方が多かったことと思いますが、主流メディアで拡散されるノイズに惑わされないことです。主流メディアに限らず日本の上場企業はほぼすべて外資系ファンドに30%以上の株を買われ、戦後の日本経済はずっと踊らされてきました。そんなところから拡散される眉唾な情報よりも、企業数で言えば99・8%を占める国内中小零細企業の経営に携わる私たち自身が、その内なる声・・・魂の囁きに耳を傾けるといいと思います。
私たちには、いまだ合理的に説明のできていない不思議な「ちから」が宿っています。生起している事象を大脳に蓄積された情報空間(ゲシュタルト)に浸すことで、その本質や意味が「わかる」という「ちから」。霊能力者の預言やお告げとは(たぶん)違うもので、覚醒のレベル差はありますが多くの人間に宿っているものと推定しています。
人類は地球上の生命体のなかで唯一「死」を前提に置いて生きています。それを適切に回避することができるように、様々な技術を編み出し、文化や芸能を育み、法を整え、「社会」を構成してきました。ダンバー数を大きく超える人間が集団化して社会を構成できたことが、ヒト属の中で唯一私たちホモ・サピエンス種が繁殖した要因です。それを可能とさせたのが「言語」。眼前の事物や欲望を発声して示すだけでなく、死を回避するための「虚構の物語」を言語的に織り成したリーダーが集団をまとめ上げ、生存競争を勝ち抜くことに成功してきたのです。
私たちが問題としてよく認識しなければならないのは、現代社会においても物語を操作する「強者」がゲーム・ルーラーである、ということです。つまり、彼らが理想とする社会にするために物語すなわち情報を味付けしている、ということ。彼らが善人であればよいのですが、自分たちさえ生き残れればいい、と考えているならば深刻です。2020年、世界人類が一斉に同じ情報空間に投げ込まれました。私たちは同じ夢を見させられているのかもしれませんね。
強き者、弱き者
さて、「強者」とはどんな存在でしょうか。生存競争の激しかった国々では死を回避するために「弱き者から奪う」という生存戦略を選んだと観ています。今世紀に入ってもなお地域紛争が絶えません。一方、私たちの日本では、死と生の狭間で強き者が「弱き者を護る」ことを選択してきたと観てみるといいと思います。記紀や御伽噺はほぼ例外なくそのストーリーが描かれており、また人間と動物そして神々の境界が緩やかなところが特徴的です。他国の神話や童話とは大きく趣が異なるのです。
弱き者たちのために違いを超えて力を合わせ、仲間を傷つける者は徹底して排除する、という道徳的慣習から生まれた淘汰圧は、その純度を高めながら脈々と受け継がれてきた。戦後、徐々にその姿が見かけられなくなりましたが、大震災時に顕れた日本人の助け合いの情景は、私に大いなる覚醒を促す光景だった。このことは何度も言及してきました。
世界はその日本人の姿を絶賛しましたので、人類の多くがそうした精神性を宿していることは間違いない。公開中の「ゴジラ―1・0」など、日本で誕生する様々なナラティヴ・コンテンツが人氣を博していることもその証左のひとつでしょう。
問題はその彼ら彼女たちが一握りの「強者」に搾取されていることに氣付かない情報弱者である、ということ。そして非常時はともかくとして、平時における日本人の物理空間には「弱き者を護る」という位置に立つ人間がほとんどいない、という現実。あらゆるものが情報化する電脳化社会では、ますます物理空間すなわち現世において実力のある存在であることが求められるようになります。
日本人の伝統的使命が弱き者を護るということであるならば、私たちは年齢を重ねると共に勁く成っていかなければなりません。その成長とは、水平的な機能的能力拡張ではなく、垂直的な人間としての発達を成していくことです。少年時代に「ボク」から「オレ」に成り、やがて「私」から「お父さん」に成っていく道のり。常に弱き者を基準にして自らの役割を自認し、変容し続けてきたのが日本型直系主義のしきたりです。出生数の低下が深刻の度を越していますが、日本人が勁く成る努力を怠り、凡庸とした大人で溢れてしまったことにより、子どもが生まれて来られなくなったのではないか、と私は観ています。自然の摂理というものでしょう。
「學ぶ人」と「學ばない人」
このままでは愛する者、弱き者を護ることができない、ということに氣付いた人は「學び」を得るために奮闘努力します。教養を身に付け、経験をより豊かなものにしながら現世で何が起きているのか、起きようとしているのか、いかに事態に処すればいいのか。統合的な自説を構築し、中今を生きる認識の確度を高め対応策の選択肢を確保する。処理しきれない大量の情報が横溢する現代。有益な情報と無益な情報を峻別する知性が求められます。すなわち、なにをもって有益とするのかを問う智慧が求められるということです。
一方で、死を忘れ、愛するということを見失ったヒトは「學ぶ」ことを忌避します。學び合いの場で試練に立ち向かうことに価値を見出すことができないばかりか、その場を忌み嫌う者すら少なくありません。人為によって造られた非自然的環境のもとで死を遠ざけ、回避する努力を見出せないヒトたち。と言って享楽や怠惰に溺れるほどに欲動的に生きるでもなく、また人格的に上等であることを求め生きるわけでもない。この総・大衆化社会には「凡庸を是とする共同謀議」が働いているのです。
示道塾で強調していることですが、この両者の溝は「価値観の違い」という認識で解決のできる問題ではありません。生存層が異なると言っていいでしょう。領域の異なる者同士では対話が成立しない以上、闘争か逃走しかないのです。志を同じくする者で集い、こころとちからを合わせて後進を巻き込み、育んでいく運動を展開することこそが最善策です。
拙著、凡事一流の中で、精神統合知能(Spiritually Integrated Intelligence Quotients)を発達させるSIIQ理論という自説を紹介しています。精神すなわち魂の囁きを心柱に据えて、決断と実践によって向上していく。心理学者マズローは、自己超越者は「無邪氣な目」を持つと言及しています。理屈や先入観で凝り固まった思考ばかりではなく、ありのままの世界を柔軟に認知することが大切だと言うのです。魂の囁きに心柱に据えて真摯に生きる。お手元にお届けした「凡事一流・抜粋篇」のなかでもエッセンスには触れていますので、この年越しのひとときにご一読いただければ幸甚です。
※乙巳:十干十二支は60年で暦が一巡りする。思い出されるのが乙巳の変。聖徳太子亡き後、蘇我氏が横暴を極め、太子の一族である上宮王家を滅亡させたところに端を発した大化の改新。(ここから元号が用いられるようになった)。その始まりが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変(西暦645年7月)であり、ここから壬申の乱、記紀編纂の詔、大宝律令(701年)によって國号を「日本」と定める流れとなったとされている。
※日本示道塾互助共道隊:地域ブロックで立ち上がる示道塾実行員会が核となって人財育成を軸とする互助体制を構築。国家的非常・緊急時に各地域ブロックが単位となって互助し合うことによって子どもたちの未来を護る体制を準備している。
※生きるための資源:経済資本が無効化することまで想定して、半年を賄える程度の食料と水の備蓄。その間に食糧の自給体制を整えて生存を確保するための資源の意。
※ゲシュタルト:知の総体。抑圧された記憶や潜在意識を含めて蓄積されている知の構造体。【参考】ゲシュタルト心理學(クルト・レヴィン他):人間の精神を部分や要素の集合ではなく、全体性をもった構造(ゲシュタルト)として捉えて構築される心理學分野。知覚は個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、個別的な刺激には還元出来ない全体的な枠組み(ゲシュタルト)によって大きく規定される、という見方をする点が特徴。レヴィンらがグループ・ダイナミクスの概念を生み出した。
※ダンバー数:人がスムーズかつ安定的に関係を維持できる限界の人数を指す。一般には150人程度が平均値とされる。ダンバー数を超えると関係の維持には拘束力のある規則や法規が必要とされる。イギリスの人類学者ロビン・ダンバーによって提唱された。
※虚構の物語:偽りに限定したものではなく、目指していく理想や大義、宗教なども含む。
※生存競争を勝ち抜くことに成功してきたのです:この部分はユヴァル・ノア・ハラリ著サピエンス全史とほぼ同じ見解。
※ゲーム・ルーラー:(造語)ゲームの最高意思決定権を持つ支配者の意≒ゲーム・チェンジャー
※人間と動物そして神々の境界が緩やかなところが特徴的です:人間が動物に変身したり、動物が人間や神に生まれ変わったりする。一神教ではあり得ない世界観が描かれている。
※淘汰圧:生物の進化において、環境条件や他種との競合など、淘汰のきっかけになりうるもので逆らうことのできない圧力を意味する生物學用語。
※ゴジラ-1.0:2023年11月3日に公開された東宝映画。戦後間もない日本を舞台に主人公たちがゴジラという驚異に立ち向かう物語。
※ナラティヴ・コンテンツ:(造語)こころの理論をよく踏まえて描かれた人間ドラマを提示する作品群。
※日本型直系主義:親が跡取りの子供夫婦と同居する家族形態。跡取りとの同居を代々繰り返すことで家系が直系的に維持される。
※凡庸を是とする共同謀議:示道塾では「262法則」を望ましい一流社員、凡庸とした二流社員、望ましくない三流社員と読み替える。その三流社員は社会的な要請により二流化の方向に矯正されるが、一流社員のように抜きん出た存在となることは避け、一流社員もが二流(凡庸)の方向に誘導されるという現象(コンフォート・ゾ-ン)。結果、中の6割が増幅して「こと勿(なか)れ社員」で溢れかえることとなると解説している。心理学者A・マズローはそれをヨナ・コンプレックスと説く。【参考】ヨナ・コンプレックス「人間性の最高価値」(マズロー著)より抜粋:『私たちほとんどの者は、現実の私たちより立派になることができる。私たちはみんな使っておらず、完全な発達を遂げていない潜在能力を持っている。往々にして私たちは、生まれつき、または宿命的、時に偶然に、命ぜられた責任(使命)を免れようとするのである』