第三回:カチカンの揺らぎ

全国公立学校教頭会学校運営誌『夢を語ろう』寄稿[文:大原 光秦]

ここで気になるデータを参照してみたい。

カチカンの揺らぎ

 この日本の若者達の自尊感情の低さは真剣に考察せねばならないだろう。単純化したくない話題ではあるが、この限られた紙幅の範囲で考えるならば、高校生たちが「ダメな人間⇔よい人間」をどのような基準で評価したのか、という問題。そして「価値のある人間⇔価値のない人間」もまた、どのような基準を用いて回答したのか、という問題の中に、我が国特有の課題が横たわっているのではないか、というところで論を進めたい。
 自分自身や人生を評価するためには、「価値観」が必要である。価値観は人間の人間たる所以であり、それが欠落すれば他の動物と同様、快不快への反応の連続で生きることになろう。現代は、価値「観」ならぬ価値「感」が幅をきかせている。その時折の感情として楽しいか否か、カワイーかキモイか。そんな各々の「感じ」を基準に群れたり離れたりして生き、それを自由と考える。価値観とは、今という刹那が心地よいかを問う満足感ではなく、どのような状況であれ、「今・ここ」に価値を見いだし得る知恵であり、そこから人生観や幸福観が紐解かれる。文脈的かつ包括的な概念である。それを分かち合ってこそ人は他者と支え合い、発展していくことができる。眼前の損得ではなく、未来や遠くに繋がる幸福を予感し、その挑戦を決め、実践の過程で我欲の抑制を学び、人間力を磨き上げる。日本では古からその価値観を「善」と認識し「煩悩」の対極に据えて己と向き合ってきた。「和を以て貴しと為す」ことを重んじ、世界に類ない文明の長さと質の高さを持つ日本。今こそ、人間らしい生き方、規範を説き、実践し、他国の模範とならねばならない。表層的な道徳観念や不確かなカチカン論を持ち出して話し合ったところで、『道徳の教科化』など、まともな論議にならないだろう。
 話を戻すが、先に見た日本の高校生の自己認識問題は価値観が形成されていないことによるものと思われる。テレビを付ければ「正義」と「不義」の対極であらゆることが論じられており、現場に生きる企業人も家族も同様だ。「私の正義」の対極にあるものは「不義」というより「相手の正義」であり、短期で決着を付けようと思えば闘争しかない。重ねて述べるが、我々は本来、「正義対不義」ではなく「善に生きるか否か」を問い、相手を理解すべく自らを諫め、心を磨いた。一方的な正義を教化することは「価値観の押しつけ」と断じてもよいが、「善とは何か」を問い、日々の営みの中で自問自答しながら生きることを学ばせることを「価値観の押しつけ」と論じるのは、あまりにも稚拙に過ぎる。道徳の教科化という問題はとても大切な論議であるが故に、意見の対立する双方が、言葉や概念を正確に定義したうえで話し合うことをお願いしたいところである。

幸福に生きるために必要なこと

最近、「幸福」を技術的に実現していこうとする試みが盛んである。ポジティブ心理学で注目されているエド・ディーナーらの研究によると、以下の問への回答から幸福度を計測できるとしている。

  • ほとんどの面で私の人生は理想に近い
  • 私の人生はとてもすばらしい状態だ
  • 私は自分の人生に満足している
  • これまで自分の人生に求める大切なものを得てきた
  • もう一度人生をやり直せるとしても、ほとんど何も変えないだろう
※配点:まったくあてはまらない1点、ほとんどあてはまらない2点、あまりあてはまらない3点、どちらともいえない4点、少しあてはまる5点、だいたいあてはまる6点、非常によくあてはまる7点

さて、皆さんはどのような記憶を紐解き、上記の問いに配点するだろうか。境遇は様々なれど、成熟された皆さんのこと、「自分だけよければいい」ということではないだろう。幸福感はあくまでも主観的なものではあるが、愛する者と繋がっている感覚や、他者に貢献し生きている実感に基づくという原則がある。課題山積とは言え、自身の「今・ここ」を生きることに「生き甲斐」や「やり甲斐」を感じること。親切や感謝を大切にし、夢や志を胸に今を懸命に生きること。大いなる和を重んじる心、「大和心」を覚醒させるところから、複雑化した問題を紐解いていくことができるのではないだろうか。
 アンパンマンに鉄腕アトム。子ども達から愛され続ける日本のヒーローは、正義に殉ずるのではなく、善に生きる。たしかな価値観を備え、しっかり学び、力強く生きる「強き善人」であり、人を引き寄せ、大勢の同志と助け合い、難局を乗り切る力を創り出す。そんな生き方を伝え続けることこそ、私達の志である。