第二回:恥を考えること(一)
人が輝く日本流経営〜経営品質の視点から〜[文:大原 光秦]
人間の気質、興味、関心、知能や人柄。こうした個性のばらつきを人間の多様性という。採用活動とはこの多様性を見極め、組織が求める人財を導くことを意味しているようだが、その成功だけで成果が得られるとは限らない。個性を見極め、採用したところで、人間は向き合う相手や組織風土など、身を置く環境によって振る舞い方を変化させていく。その継続で塗り替えられた無意識が経営成果に与える影響は計り知れず大きい。無意識は人間の行動の9割以上を占めているのだ。この人間の振る舞い方の変化を流動性という。
長い歴史の中で、この1年ほど人間の「あり方」や「生き方」について日本人が同時的に思いを巡らせたことはなかっただろう。東日本大震災。私はその日、宮城県仙台市にいた。竣工から半世紀は経過したと思われる古いビルの11階で地震に遭った。真っ暗闇の被災地。通信網は遮断され、今、何が起きているのか情報がとれない。雪が舞い、余震が続く中で、皆が一様に恐怖と不安に包まれていた。私が身を寄せた仙台駅周辺の避難所は個人で行動していた人が多く、それぞれに孤立していた。関係性が途切れ、人間としてのデフォルト状態。その状態で選択された日本人の振る舞いが世界に大きく報道された。
避難所で居合わせた老若男女は約100名。余震が続く暗闇の中、リーダーシップ不在にも関わらず、不思議な連帯感があった。それは運命を共にしている一体感と、他人同士という緊張感が、暗黙の了解のもとに均衡し、形成されたものだった。「お互い様だからね」という意識と、「恥ずかしいまねはするなよ」という意識。そこから生まれた秩序に各自の流動性は導かれ、世界の国々が讃嘆する高度な社会が形成された。地震報道の中では、日本人の冷静さや礼儀正しさが注目されたが、それが「恥ずかしいまねはするなよ」「恥ずかしいことはするまい」という他律的な緊張関係から少なからず導かれたものであったことはあまり伝えられていない。その箍(タガ)が外れるとどうなるか。「人間は、逆境ではすぐれているが、安全と富を手に入れると、惨めな目的を失った生き物になりがちである」。デニス・ガボール「成熟社会」の一節が思い出される。
友達と同じものを買い揃える小学生。「カワいー」と「キモいー」であらゆるものを評価する女子高生。KYをからかう大学生。スーツの色も髪型も横並びの会社人間。世界一多いとされる恐怖遺伝子がなせる技なのかどうか、外れることを一様に忌み嫌う日本人。場の「流れ」、見えない「クウキ」に過剰適応する力はおそらく世界一であろう。それは、この貧しい島国で生きることを選択した私たちの先祖が、自然と、そして他者と共生することによって育み、進化させてきた「生きる力」の名残でもあると考える。しかし、本来は他律的な集団生活の中で習慣を形成し、自律した個人が育まれたことを忘れてはならない。ネッツトヨタ南国では、そのような場の流れを重視してきた。自分たちは何を「恥」とするのか。深く議論してみる価値のある問いではないだろうか。