ビスタワークス研究所の志事(21) 文・大原 光秦

どんなに考えたらそうなる?

 唖然とするような報道の多い世の中です。話題になっているところでいえば隣国が我が國に対してとる様々な言動。道も法もない様子から察するに、さぞや強烈な動機に支えられているものと見受けます。それに反応して激しく反発する日本人も多い様子。また、かの国の内部もまた大分裂の様相です。


 現代を生きる私たちは、不健全な衝動を抑えるため、「考え方」というものを學ばなければなりません。「考え方」を持たない人は、感情に根差す喜怒哀楽で言動します。万人の闘争状態を回避して社会秩序を保つために、ある人たちは宗教を発明し、その教義に「考え」を求めました。そう、それは「考え(思想)」であって、「考え方」ではありません。「考え」は、与える情報によって歪めることが容易なため、大衆操作を目的とする悪政に用いられることが多いものです。それによって利害の対立する国家間での紛争は絶えることがありません。

下手な「考え」休むに似たり

 さて、「考え」と「考え方」とでは何が違うのでしょうか?
 明確に区分され定義されているものではありませんので、多くの方が曖昧なままで使っているようです。しかし、ここがよく峻別できていなければ、社員の人間的成長の支援で混乱します。その重要性の高さから、示道塾の前半でじっくり學習していただくところですが、この機会に簡単に解説してみます。


 「考え」とは、自身の見識や思想、感情に基づく情報の位置付け。たとえば、クルマを買うか旅行に行くか、はたまた貯金をするか。仕事を続けるか退職するか、進学するか就職するか、等々の判断をする際に求める基準です。どうするか、と巡らせるものが「考え」で、時に考えあぐねるもの。経験値や知識が少ないと意思決定できませんので、上司や親が「△△だから○○した方がいいんじゃない?」と、お節介に教えてしまいます。それだけでは人は育ちません。余談ですが、示道塾ではできるだけ「考え」を示さないため、「教えてくれない」と言われがちです(笑)。自分で考えることこそが大切で、そのための「道」を示し、そこに根差した「考え方」を學ぶことが必要です。


 「考え方」とは何でしょう? 教育勅語※1にある十二の徳目※2でしょうか。私は違うと考えます。教育勅語後段に書かれてあるとおり、十二の徳目は皇族の遺訓を連ねたものであり、國民(臣民)にも求めたい「生きざま」として例示されたものです。こうした訓戒は誰もが心のうちに宿す煩悩を制するのに有効ですので、徳目に類似した行動規範を説く会社がたくさんあります。「お客様満足度を高めよう」とか「困っている人がいたら手助けしなさい」とかというところです。しかし、これらはあくまでも「善き考え」です。言い換えれば「思想」や「規則」ですので宗教の教義や戒律に近く、押し付けると社員によっては反発します。教育勅語がその一部分を切り取られ、現代人の一部から洗脳的だと強く批判される一端はそこにあるでしょう。素直な社員を採用して「善き考え」に染めることは、もちろん悪い行為ではありませんが、社員の人格向上まで功を奏している事例は多くないようです。いくら「善き考え」でも、それを会社に置いて帰ってしまって家で実践しない、ということでは価値を成しません。やったりやらなかったりでは習慣化しないのです。人間的成長(大脳前頭連合野の機能的発達)には毎日の鍛錬が求められます。そのためには、「善き考え」を生み出す「健全な考え方」が必要なのです。


 7世紀までの日本に仏教や儒教がもたらされましたが、神道に根差す和魂でそれらは独自のものへと変容しました。「教義」をただ鵜呑みにするのではなく、受け継いできた魂によって見事に昇華させたのです。これを和魂漢才といいます。そして和して生きることを貴しとする「考え方」が具体性をもって根付いていきました。幼少期には「考え」を諭し、躾けながらも、互いを生かし、繁栄の方向へ導き合う「考え方」はやがて文化へと結晶し、日本人の生きる道となりました。


 時は流れ、江戸時代末期。すっかり武装解除したこの國に、米英仏の影が忍び寄ります。「和魂洋才」といきたいところですが、時間の猶予がない。文明開化の名のもとに西洋化が加速度を増していくなかで、明治天皇は教育勅語を渙発されました。そこで求められている教育の根源は、最古の國書である古事記、日本書紀から紐解かれている点において、たしかな正統性のあるものです。しかし、大正、昭和に続く時代の流れとともに、記紀を読む者が少なくなり、また多くの異国人も流入して、次第に人々の「考え方」は揺らぎを増していきます。
 そして終戦。米国によるウォーギルトインフォメーションプログラム※3が実行されます。愛國の士が公職追放されたなか教育勅語は廃止されます。高度成長の興奮と閉ざされた情報空間の中で日本人の生きざまはすっかり変容しました。「善く生きるための考え方」がわからなくなってしまったのです。現代日本には国教がなく、日本国憲法があるだけです。権利とされる信教の自由、言論の自由により、「考え」を強制されることも「考え方」を矯正されることもありません。我が國が國家的再起力を取り戻すためには、「日本人としての生きることの仕方、考えることの仕方」を學ぶことがどうしても必要です。手本となる大人が絶滅危惧される現代に至っては、學びの場を創り、教育を立て直すほかありません。それが、示道塾であり、立志塾です。

働くことを通じて得たいもの

 これは、立志塾で最初に考え合わせるテーマです。働くことで得たいと考える「一番大切なこと、もの」は何か。そして次に何が大切か、その次は?と問答していきます。もちろん資本主義國家ですので、お金を得るために働く、という前提に立つわけですが、それが一番大切なことか?と問われるとどうでしょう?皆さんはいかがですか?社員の皆さんはどうでしょう?金の量が仕事の最高目的となると、働き方が汚いものとなりかねません。そこをコンプライアンスや規範で制したところで、見ていないところで罪は発生します。善き働きをするためには、人間として向上すること、人間的発達が求められます。そのためには、自らの意志で善き言動を選択するための「健全な考え方」が必要です。


 実はこのテーマ、新しい仲間を迎え入れる際にもっとも重視して確認すべきところだと考えます。就職希望者に志望動機を聞けばそれらしいことを話すのですが、実のところそれは採用側が(時に進路室が)埋め込んだ情報を反復していることが多いものです。関わる大人たちは、学生が自らの力で考えるための支援を提供すること。入社希望者が、「本心」として何を仕事から得たいのか、それを見出せていなければ、給料や休みなどの労働条件が就業条件となるのは当たり前のことです。様々な示唆によって考え至った志望動機には、その人ならではの人生観を嗅ぎ取ることができます。そしてその軸に沿って質疑応答することで、双方にとって望ましい就職が実現します。その試行錯誤をなくしては、採用担当者自身の向上も見込めません。


 「健全な考え方」に沿って考え、主体的に選択した言動を省察し、知恵を得ること。そうしてこそ人は人間的に発達し、真の日本人となります。そのために組織全体で「健全な考え方」を共有する文化を醸成する。それによってのみ、自ら考える社員による真の権限委譲経営※4が実現し、生命型組織へと進化するのです。今回もいいところで紙面が尽きました。「健全な考え方」の解説にまで至りませんが、ぜひ考察されるといいと思います。

 

※1 教育勅語(教育ニ関スル勅語):日本人が生きていく上で心に置くべき十二の徳目が述べられている。明治23年(1890年)に発布され、終戦までの日本の道徳教育の根幹となった。
※2 十二の徳目:親孝行や友愛など、生きていくうえで心がけるべき徳目を簡潔に伝えるもの。
※3 ウォーギルトインフォメーションプログラム:大東亜戦争の終結後、GHQによる日本占領政策の一環として行われた、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための洗脳政策。
※4 権限委譲経営(エンパワーメント経営) :組織目的を共有したうえで、行動の意志決定を社員に委ねる経営。自由闊達な試行錯誤から強い社員が育まれ、組織の再起力が高まる。