ビスタワークス研究所の志事(19) 文・大原 光秦

自由ハ土佐ノ山間ヨリ発シタリ

 地震や集中豪雨が相次いだ夏。罹災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。また一日も早く復旧されることを心よりお祈り申し上げます。


 この夏に開催した「平成の武者修行」。私どもが主催した志國遍路篇の様子は裏面の大槻レポートのとおりでしたが、私は富山県で社団法人百年示道塾とやまが主催した立山七峰登山篇にも顔を出して参りました。理想の自分、本物の自分を見出すこの修行は、見守る私たちにも大きな気づきを与えてくれます。富山のように有志が立ち上がり、この輪が広がっていくことを願ってやみません。やるも自由、やらぬも自由。今回は「自由」について論考してみました。


 出世や高報酬を望まない「ほどほど社員」※1が増えているそうです。また、やりがいや成長、人間関係を求めず、働いた分だけの報酬をキッチリもらうことだけを重視する「ワリキリ社員」※2も増殖の一途。彼らの行動原理の多くは、『仕事は労働と金銭の等価交換である』という意識に根差しています。また、『他人の迷惑にならなければ、法の範囲内で人間は自由である』という思想が通底しているように思います。皆さんの中にも、「それでいいんじゃない?」とお考えの方もいるでしょうし、その教育方針の家庭や学校が多く存在していることもたしかです。企業においてもかなりの割合を占めているように思います。ただし企業の場合は生産性が成否の分水嶺となりますので、環境整備やコンプライアンスの名のもとに新しい法をつくって、社員をうまく管理するわけですが・・・そうした合理的な職場をつくることを奨励し推進されているものが「働き方改革」。すでに100年経った遺物ともいえるF・テイラーの科学的管理と成果主義の再来にほかなりません。C・チャップリンの映画、「モダンタイムズ」※3でその限界が見事に予言されていますね。愛のないところに繁栄などあろうはずがないことは、歴史を観れば明らかです。

問題を生み出した意識のままでその問題を解決することはできない
アルベルト・アインシュタイン

 一方で、使命感をもって働く体裁の人は実に多いものです。それは、困ったことを相談した時の対応で歴然と分かります。旅客業、宿泊業、銀行業、小売業、ネット通販、教育界、行政・・・。使命感を持って働く体裁の人ほどに、問題を指摘されると態度が豹変したりします。クレームを付けられたと思い込んで防御態勢、敵対姿勢に入るのでしょうか・・・単純に、困ります。その人物固有の問題というより、日本文化が退廃し、社会が崩壊し始めている証左だと深刻に思えるのです。


 あるテレビ番組。働かない若者たちが集められていました。彼らにもの申す識者もいれば、「好きなことすればいいんぢゃない↺」と擁護する著名な経営者もいます。番組の後半、若者が切れ気味に言い放ちました。
「食べていけるのになんで働かないといけないんですか?誰かに迷惑かけました?私には私の人生を生きる権利があります!」
 同調する若者や著名な経営者からの拍手喝采。さしたる問題提起もなく番組は終了しました。嗚呼、情けなや・・・。


 「権利」という語が「Right」の翻訳語として世に広がる一役を担ったのは西周でした。西は、幕末に「萬國公法」を和訳し、明治には機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。藝術、科學、技術、理性、心理、義務などは、どれも西のつくった和製漢語です。彼は「明六雑誌」の創刊号で次のようなことを述べています。

「philosophy」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語、「哲学」を創作する。外國語を外國語のまま紹介したのでは、その心とする語彙が広く世間に普及しない。欧米の概念を欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を我が日本のものとしていかなければならない。

 このように和魂洋才を重視した西でしたが、「Right」を清國で翻訳された「権利」という語で普及させたことに福沢諭吉が異論を唱えます。

『Right』は『権理通義』と訳すべきで、
『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す
福澤諭吉

 「権利」という語は、自らの利益を守るために主張する正当性、すなわち利権を表します。しかし本来の「Right」にそんなニュアンスは含まれていません。さらに日本文化に照らして言えば、人間の道、道理に適っていることを前提として守られるべき正当性が「Right」であり、「権理」と表すべきものでしょう。それを主張する「自分」とは、家族や親族、ご近所、会社や國家といった共同体の中で生かされる社会的存在であり、學び、精進し、成長してやがて共同体に貢献することがあたり前の道理。その理を権った上で求められるものこそが日本人の「Right」。社会秩序に矛盾しないだけでなく、正当性がなければならないと考えられたのです。働かないニート君の漠然とした「権利」の主張。我が國において傍楽ことなしに権理が主張できるわけなどない。問答無用で、「あなたは間違っている」と言うところなのです。

すべて国民は、
勤労の権利を有し、
義務を負ふ
日本国憲法 第二十七条(第一項)

 「Right」が「権利」として普及したことにより、対義語となる「義務」の概念もまた蝕まれました。その悪影響が今日まで及び至ることを福澤は予言したのではないでしょうか。福澤の「Right」に「通義」が含まれているように、日本人は伝統的一貫性のある「義」に基づき生きることが求められます。迷惑をかけない範囲で生きる、ということではなく、世に役立つ生き方を求める。その義に務め、権理を求める人間にこそ自由があるのです。それを説き示したかつての士の学び舎こそが藩校。再生せねばなりません。

※1 ほどほど社員:高報酬や出世を望まずほどほど、そこそこに働きたい社員群
※2 ワリキリ社員:仕事の対価は金銭だけだと割り切る社員群
※3 モダンタイムズ:1936年チャーリー・チャップリンの代表的映画作品。産業革命によりオートメーション化された工場の大型機械に主人公が巻き込まれるシーンが秀逸(1936)