ビスタワークス研究所の志事(12) 文・大原 光秦

自在に生きる力

東京ディズニーランドにて

 新入社員を迎えるこの時節。今回は若い方にも読んでいただける内容でお届けします。
 仕事がら各地を巡る私ですが、年明けから春にかけての三ヶ月間はできるだけ高知にいて、四月からの活動に向けた充電と家庭のメンテナンス(汗)をおこなうようにしています。先日、その一環で4歳と2歳の愚息たちを連れて行ってきたディズニーランドでのお話です。
 民放が3局しかない高知県。ミッキーさんやプーさんに触れる機会の乏しい彼らは、遊びとなると即刻、剣を持ち出す武闘派。ハピネス感溢れるランドのオーラに、ただならぬ違和感を抱いたのでしょうか、ふたりとも神妙な面持ちでゲートをくぐりました。キャストの皆さんはもちろん、ミニーさんやドナルドくんたちがそんな彼らの様子を見て親しげに手を振ってくれたりするのですが、ほぼ無視。そんななか、唯一、長男が夢中になったのが、光線銃を打ちまくるバズ・ライトイヤー(トイ・ストーリー)のライドでした。ピュンピュン打ちまくることひとしきり、出口を通るや間髪入れずに「もういっかいのる」とアンコール。1回目はファストパスですぐに入れたとはいえ、次は2時間待ちです。「これは1回しか乗れんがで」と、後になって大人の事情を言っても手遅れ。「もぉいっかいのぉる」を繰り返すばかり。家ではテレビ番組もほとんど録画して観ているせいでしょう。おもしろかったら「おかわり」が常態化。こんな時、皆さんだったらどうしますか?
 「子どもに"1回限り"を学ばせる機会だな」と考えました。「この長〜い列に並んで待てるかえ?」と、最後尾まで回り込んで4歳児を諭す私。相手は、長い順番待ちをするという状況に遭遇することのない高知の子どもです。どうしていいやらわからないのでしょう、ただ「もういっかい」を繰り返すばかり。負のスパイラルが始まることを予見した家内と弟はどこかに消えてしまいました。「待たんがやったら乗れん。行くぞ」と背を見せる。大声で泣き始める。しばし放ってみようと隠れて見ていると、キャストさんが「どーしーたのかなー」とにこやかに話しかけています。急いで「父です」と戻り、「わかったかえ?」と問うと、「もういっかいのる~」。まだ言っています。もはや乗りたい乗りたくないの問題ではなく、出口のない闇に心が閉ざされた状態。諦めません。こっちも妥協しません。4歳VS50歳。ディズニーランドに相応しくない、場違いな親子です。

 「新しい剣を買ってやる」「アイス食べようか」と、交換条件を出して泣きやませることは難しくありません。いわゆるアメとムチ。その気にさせることを目的にして、時に叱り、時に褒めるのも同じことです。示道塾では、そうした「取り引き」で人を操作する関わり方は、リーダーシップではなく「ボス猿マネジメント」だとしています。たしかに、部下などのフォロワーが魅力を感じる条件を提示できれば、意のままに行動を操ることができるかもしれません。しかし、そのアプローチではリーダーがリーダーとして成長しません。また、現代はほどほどの満足で良しとする人間が増えた社会。「お金は困らない程度あれば十分です」「出世なんかしなくていいです」と一歩下がられてしまうと、交渉すら成り立ちません。「何甘えたこと言ってるんだ!馬鹿野郎!」などと、人を追い込むようなやり方を好まない方も確実に増えています。リーダー的立場の方が、ボス猿マネジメントを是としない風潮は一般化しつつありますが、やらない、という選択をするだけで十分ではありません。それに代わる、より高い価値を生み出すリーダーシップを学び、体得することが求められているのです。

どうして働くのですか?

 社会人になったばかりの皆さんは、どうして働くのですか?と問われて、どうお答えになりますか?「生活するための収入」「知識や技能を得たい」「自分自身を高めたい」「夢を実現するため」「世の中に役立ちたい」・・・様々だと思います。 「どうして?」と問われた時に、「そうしなければならない理由」を答える人と、「そうすることで実現したい理想」を答える人がいます。理由と理想は似ていますが異なるものです。示道塾では、前者を、過去からの文脈で「今」を位置づける事情思考と言っています。後者は、未来や「本当はこうありたい」というビジョンからの文脈で「今」を位置づける目的思考と呼びます。事情思考は「今なすべきこと」に義務感を生み出してしまいますが、目的思考は使命感を見出すことができます。ただ、理想を描くことは簡単ではありません。過去に発生した事実や現実は知ればいいだけのことですが、ビジョンは想像(imagine)して、創造(create)しなければならないのです。そしてなにより、それを実現させることを心に誓わねばなりません。

自由ハ土佐ノ山間ヨリ発シタリ
植木 枝盛(立志社「海南新誌」明治10年創刊号より)

 明治の時代、この土佐から板垣退助、植木枝盛、片岡健吉、中江兆民などの「自由」を求め、言論で国家と戦う人間が多く出ました。自由民権運動です。
 自由と聞いて『自由の女神』を連想される方は多いと思います。そこで言うリバティやフリーダムという語は、束縛や抑圧からの開放という意味のもので、西洋的二元論で考えると「不自由でないこと=自由」と位置付けられます。つまり、不自由な「今」を強いられているのには理由や原因があり、それを除去すれば自由になれる、という理屈ですが、自由とはそんな消極的なものでしょうか?
 南国土佐で私たちが考える自由は違います。自由とは不自由の反対側にあるものではありません。自由とは、かくありたい、あるべきだとする理想を掲げ、その目的追求のために「今」を捉え、考え、一所懸命に努力して自在に生き抜く力です。子供染みた我が儘や放縦※1ということではありません。自由は不自由と共にあるもの。煩悩があるからこそ善があり、カナシミがいるからこそヨロコビが輝く※2
 あ、インサイド・ヘッドで思い出しました。ディズニーランドのその後です。そんなこんなで口も聞かず2時間ほどむくれていたでしょうか。「お母さん探すか。肩車するかえ?」と問うとニッコリ頷きました。共鳴し合える目的と目標を示すこと。夢と魔法の王国ディズニーランドは親の修業の場なのかもしれません。

※1 放縦(ほうじゅう):何の規律もなく勝手にしたいことをすること。また、そのさま。
※2 カナシミ、ヨロコビ:人間が抱く「感情」を主人公に描いたディズニー/ピクサー・アニメーションの長編作品「インサイド・ヘッド」のメインキャラクター