第五回:恥を考えること(二)

人が輝く日本流経営〜経営品質の視点から〜[文:大原 光秦]

 当コラムの2回目で書いた「恥を考えること」を再考したい。「恥」を起点とする利他行動は、ネッツトヨタ南国に限らず、考える社員による協働、価値創出が進んだ組織に共通して見出されるところであり、そこにこそ日本組織の強みと弱みが同居すると見ているからだ。ちなみに「恥の文化」論については、ルース・ベネディクトの「菊と刀」発表(1946年)以来、様々に交わされている議論は割愛するが、漠然とした観念論、精神論ではないことはご承知いただきたい。また、今回も話を単純化するため、「場への同調性の高い日本人」という一般論を前提にして考察を述べざるを得ないところもご理解いただきたい。

 恥を克己的に機能させていくために、次の2つの要件について職場で話し合ってみることは意義があると思われる。まず「何をもって恥とするのか」という個々の認識への問いである。その振る舞いが組織で常識とされているところから逸脱していると「非常識な人」ということになり、忌避される。よって、組織への帰属意識が高ければ恥とされる行動をとることはないが、組織の文化レベル自体が低ければ振る舞いもまた低俗なものとなり、「甘えの構造」を形作る。従って、なによりも組織における「常識」の水準を向上させる取り組みが求められる。ただし、それを規則(悪行を律する=罰)で押し進めてしまうと本末転倒。あくまでも道徳的規範(善行を求める)意識を引き上げる施策が求められよう。

 もうひとつは、自分が誰に見られているかという、場における関係性の問題である。尊敬し、信頼している人から嫌われたい人間などいない。恥ずかしい真似はするまいと自らを律するものだ。成人式での若者の傍若無人の振る舞い、「旅の恥はかき捨て」と言わんばかりに刹那的に行動する姿をやり玉に挙げる輩は多いが、それを生み出しているのが「私」であることに気づいていない。公衆トイレで手を洗わない、飛行機内で携帯電話の電源を切らない、バスや電車内で平気で通話する。そのほとんどが中高年だ。たしかに少数ではあるが、この国ではかなり目立つ。また一方で混乱の続く政局の動向。若者たちからすれば、そんな身勝手なオッサン達に文句など言われたくない、といったところだろう。

 「おかしい」と感じる行為があれば、「あなた、おかしいよ」と言おう。と言って、大きな危険を冒してまで他人を咎めなくてもいい。まずは家族。そして同僚。身近に生きる者が正していくことだ。時には勇気を出してお客様にも物申そう。飛行機や電車内の逸脱者に注意を喚起するのは、その職を選択した者の責務だ。もしそれで逸脱者が狼藉を働こうものなら、その時には味方となり助ける。大震災で見たように、この国の人の大多数は何が正しいことかを知っている。信じること。勇気を持つこと。

 失われてしまった大津中学生の命。この国の民として守るべきところが疎かになってきている。我々の先祖が営々と積み重ねてきたとおり、小さな単位で人間が真剣に関わり合い、支え合い生きること。組織は、そのための「場」であり、追求する価値として定めた経営理念を要(かなめ)として、一流を貫くことが肝要である。それこそが価値前提の経営というものであろう。